雨のち晴れ

自由帳

日本国憲法24条は同性婚を禁じているか

こんにちは!

 

 九州地方は豪雨による水害が甚大だとニュースで知りました。普段はほとんどテレビを見ないので、被災地の惨状が映し出されるたびに胸が痛みます。災害に見舞われた方、消防や警察、自衛隊など災害に関わる方の安全を祈っています。

 

 学生の頃に憲法24条と同性婚についての関係を殴り書きしたメモが出てきたので、それを参考にしてちょいと肉付けをしながら「自由帳」という形でまとめてみますね。

 

このblog記事を読む前にこの前に書いた記事を読んでいただけると、僕の主張がより分かりやすくなると思います。 

amehare.hatenablog.jp

 

では、本題に入ります!

 

 

 

 

 

1. 日本国憲法24条が施行されるまでの日本の婚姻制度

 ここでは、明治民法下での婚姻がどういうものであったかを軽く取り上げ、現在の日本国憲法24条が制定された経緯を簡単に説明します。


 明治民法において、婚姻は家と家の契約でした。また、明治民法750条は「家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」と定め、婚姻や養子縁組については、戸主や両親の同意が要求されていました。そのため、婚姻が、相手方男性と女性の両親とが婚姻の当事者である女性の意向を無視した話し合いで決めてしまう事例も多々ありました。


 GHQはこのような男女不平等を撤廃するために、男女平等や女性の権利尊重を具体化するような新憲法の作成に着手しました。

 

2. 日本国憲法24条GHQ草案と日本国憲法24条を読む

 まず、日本国憲法24条GHQ草案と日本国憲法24条の草案から制定までの変遷を確認します。

 

 日本国憲法24条GHQ草案

  Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes, founded upon mutual consent instead of parental coercion, and maintained through cooperation instead of male domination. 

  婚姻は、両性の社会的平等また明確な法の上になされるもので、両親に強制されることなく相互の同意の上に成り立つものであり、男性優位ではなく互いの協力により維持される

 

 日本国憲法24条

  Marriage shall be based only on the mutual consent of both sexes and it shall be maintained through mutual cooperation with the equal rights of husband and wife as a basis.

  婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 

 このようにみると、草案が「男女平等」「相互の合意」「家制度からの女性解放」に重きを置いていることが読み取れます。長い草案条文からスリムにさせたのが現条文です。内容も草案時から変わっていません。

 

  次に最高裁判所判例から、日本国憲法24条1項がどのように解釈されているのかをみます。

 

3. 日本国憲法24条1項の解釈と同性婚の可能性

 ここでは、憲法24条が同性婚を禁じているのか、最高裁判所判例を引用しながら検討していきます。

 

 日本国憲法24条1項の解釈

 まず、最高裁判例を書きますね。僕が大切だなと思うところに下線部が引いてあります。

 

2015年12月26日、最高裁判所大法廷で夫婦別姓訴訟の判決がありました。その判決文の中で、最高裁大法廷は憲法24条1項について以下のように判示しました。

また、同上1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と規定しており、婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきあるという趣旨を明らかにしたものと解される。
最判平成25・12・16民集67巻9号1761頁
(下線は筆者によるもの)

  

 最高裁日本国憲法24条1項の解釈を読めば、同性婚が禁じられていないことは明白です。日本国憲法24条1項の目的は、婚姻は「当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきである」という趣旨を明らかにしたもので、先ほどあげた、日本国憲法GHQ草案を具体化させたもに他ならないからです。

 

 同性婚の可能性

 このように、日本国憲法24条が書かれた背景や最高裁判例を読むと、同性婚を禁じていると解釈はできないです。より詳しく書きます、

 憲法学において、日本国憲法24条が規定する男女平等や女性の権利尊重などの保護は及ばないとするのが通説です。なぜなら、日本国憲法24条は婚姻の男女平等や女性の権利尊重を保護するものであるので、同条文がそのまま同性カップルに適用することはできないという解釈になるのです。おそらく、誰でもこの点に関して異論はないと思います。

 しかし、最高裁が示したように、婚姻が「当事者間の自由かつ平等な意思決定」により成立するのならば、同性カップルにも同様のことがいえるのではないでしょうか。

 つまり、日本国憲法24条が規定する男女間に関する保護は同性カップルには及ばないが、日本国憲法24条が同性婚を禁止しているとまでは言えないということです。民法など関連する法律の改正で同性婚ができるというわけです。

 

4. 政府見解

 一応、現内閣の政府見解を書いてざっくりとまとめにはいります。

 

 平成30年の常会で立憲の逢坂誠二衆議院議員が「日本国憲法下での同性婚に関する質問主意書」を内閣に提出しました。いくつかの質問のうち1つを取り上げます。一部抜粋です。

逢坂議員「現在、同性婚日本国憲法第24条第1項に反し、違憲であると考えているのか。政府の見解如何。」

この質問に対する内閣の回答は以下です。

内閣「憲法第24条第1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると規定しており、当事者双方の性別が同一である婚姻(以下「同性婚」という)の成立を認めることは想定されていない。」

 

 そりゃそうだ。日本国憲法24条は異性婚の婚姻を保護するための規定ですから、その保護が同性カップルに適用することは想定されていないのです。しかし、官僚答弁みたいですが、内閣の回答を読めばわかる通り「同性婚違憲です」とは言っていません。つまり、同性カップルの婚姻を「想定」すれば、同性婚民法等の改正で可能であるということですね。

 

3. ざっくりまとめ

 日本国憲法24条がいう婚姻は異性婚についての定めであり、同性婚にそのまま適用することはできません。しかし、日本国憲法24条GHQ草案から現日本国憲法24条、最高裁判例などを参照すると日本国憲法24条が同性婚を禁じているとは解することはできません。同性婚に婚姻と同様の法的効果を与えることは日本国憲法24条と矛盾するものではないです。
 今回は触れませんでしたが、同性婚日本国憲法13条や同14条からも積極的に認められるべきものであると考えます。

 

 

 

立憲主義と解釈改憲は相反しない

こんにちは!

雨風が強くて家が飛ばされそうです。

 同性婚憲法を改正を経ないで可能とする立場、立憲主義に立脚し日本国憲法24条を改正してから同性婚を可能する立場と様々ですが、僕は前者の立場です。今日は立憲主義解釈改憲について書きます!

以下のblog記事も読んでいただけると、より日本国憲法24条について分かると思います。

 

 

1. 立憲主義とは

 立憲主義

 簡単な説明がないものかと探していたら、兄弟が使っている東京書籍版「現代社会」の教科書に立憲主義についての説明書きがありました。以下に引用します。

立憲主義とは、政治はあらかじめ定められた憲法の枠の中で行わなければならないというものである。さまざまな法のなかでも憲法は、ほかの法が作られる際の原則や手続きなどを定める点で、法のなかの法という性格をもつ(最高法規性)。国家権力は憲法によって権限をさずけられ、国家権力の行使は憲法により制限される。憲法は、個人の尊厳が目的とされ、人間らしい生活を保障するものであり、政治権力がそうした目的に違反することは、憲法によって禁止される。そして、国民の権利が国家によって侵害された場合には、司法などによって法的な救済がなされることになる。

 この立憲主義の説明を読んだ時に似た言葉である「民主主義」とは意味合いが違うなと思いました。立憲主義は、憲法に基づいた枠組みのなかで民主主義が行われているイメージというんでしょうか。 


 立憲主義の精神と同性婚

 立憲主義が何かわかったところで、同性婚に話を戻してみます。憲法は、「個人の尊厳を保障することを目的とし、政治権力がそうした目的に違反している場合は司法などによって法的な救済がなされる」ということは、同性婚が認められていない状況は立憲主義から反したものになっています。
 また、立憲主義の精神から日本国憲法24条を理由に同性婚を法制化しないことも、同13条幸福追求権や同14条法の下の平等との整合性が取れなくなります。

 

 

2. 解釈改憲同性婚

 一部、同性婚改憲派の主張に「解釈改憲での同性婚容認は立憲主義との関係からダブルスタンダードになる」というものがあります。僕の結論としては、ダブルスタンダードにはなりません。

 

 統治規定と人権規定

 憲法の条文はざっくりと統治規定と人権規定に大別できます。

 

 ・統治規定

  国会、内閣、司法、財政、地方自治など。

 ・人権規定

  国民の権利及び義務など。

 詳しい条文は省きますが、ざっくり分けるとこうなります。法条文は「解釈」を行っていくのですが、解釈を行う上でのルールがあります。以下です。

 

 ・統治規定

 「厳密な字義解釈が必要」

 ・人権規定

 「書かれている禁止規定は守られた上で、書かれていない事項に関しては禁止されていない」

 

 という憲法学上のルールがありますよ!と大学で教わりました。例えば、日本国憲法の立案過程において「環境権」を想定していませんでした。時は流れ、都心にマンションが多く建設されるようになり、部屋からの眺望が悪くなった結果、訴訟に発展するケースが出てきました。しかし。憲法等には「環境権」についての条文がありません。どうしたかというと、人権の包括規定である日本国憲法13条などを根拠に判例や立法措置によって「環境権」が認められるようになりました。

 

 このように、人権規定に関しては、禁止されていないことは人権保障の観点からより積極的に認めようとします。

 

 人権規定と同性婚

 話を同性婚に戻します。日本国憲法24条が制定された当時、同性婚は想定されていませんでした。それは、日本国憲法GHQ草案などを見ればわかります。日本国憲法が1947年5月3日に施行されてから73年の時が経ちました。世界や日本国内の状況も施行当時とは違います。日本国憲法24条が同性婚を禁止しているとは言えません。禁止されていないのですから、立憲主義の精神と人権規定の解釈により、積極的に同性婚を認めるべきです。

 

 

3. 思うこと

 同性婚や登録パートナーシップ制にするとなると、制度化されるまでに時間がかかります。今、日本全国で裁判をしていますがすぐには結論がでないでしょう。あと何年、何十年まてば「婚姻」できるようになるのでしょうか。

 

 憲法を変えるのは悪くない手だとも思います。しかし、現実味が全くありません。過去、73年間も一度も改憲をしていない状況で「憲法を改正して同性婚を!」と僕は言えません。先ほども書きましたが、あとどれくらいまてばいいのか...。

 

 「憲法を改正して自ら権利を掴んだと言えるように!」と主張する人もいます。僕らはもう同性婚をする権利を掴んでいます。あとは「立法」だけです。日本の裁判所は「立法」に裁量を置いています。突っ込んだ判断はめったにしません。

 

 

と思っていることをつらつらかいて終わり〜

 

 

 

宗教上の理由から他者の同性婚をしたい自由を奪えるのか

こんにちは。

免許の更新に行こうと思ったら、
雨風が強く、警察署へ行くことを断念しました。
免許の有効期限はあと2日。
明日はなんとしてでも警察署へ行きます(笑


さて本題ですが、
宗教上の理由から同性婚に反対の立場の人は、
他者の同性婚をしたい自由を奪えるのか、
ということを思考していきます。
僕自身、ゲイなのでホットな話題ですが、
なるべく熱くならないように(熱くなりやすい性格なんです)。

導入として、異性婚、事実婚同性婚の法的効果の違いをサラッと書いた後に、僕が宗教と同性婚の関係に興味を持った理由をこれまたサラッと書いた後に、本題である宗教と同性婚について「法」の側面から思考します。

 

 

 

 

 

 

1. 異性婚と事実婚同性婚の違い

 本題に入る前に、異性婚、内縁、同性婚それぞれにどういった法的効果があるのかをみてみます。ここはサクッと簡潔に書くので、詳細を知りたい方が各自で調べてください。

 

 婚姻(異性婚)の法的効果

 日本における男女間の結婚のことを法律上「婚姻」といいます。このblogでは法律上の「異性婚」のことを「婚姻」と統一します。
 婚姻をした場合、男女には様々な法的効果が与えられます。これにより、婚姻と事実婚同性婚などのその他の結婚とは区別されます。婚姻のみに与えられている法的効果は、民法725条(親族関係)、民法753条(成年擬制)、民法772条(嫡出推定)、民法890条(配偶者の相続権)になります。
 しかし、民法が婚姻に与えている法的効果のうち多くは、法解釈や判例により事実婚にも与えられています。

 

 内縁の法的効果

 内縁は、「婚姻関係に準ずる関係」として扱われます。2人の関係が「婚姻に準じた関係」であると認められると、婚姻に関係する民法の規定が準用されることになります。しかし、婚姻の法的効果の部分にも書いたように、民法の婚姻に関する全ての規定が適用される訳ではありません。
 民法752条(同居義務)、民法770条(貞操義務)、特別法による公的年金等を配偶者として受け取る権利などが婚姻と準じた保障がなされています。しかし、民法890条(配偶者の相続権)、民法772条(嫡出の推定)などが婚姻とは違い保障されておらず、配偶者の相続権や父子関係の発生のためには認知が必要など不条理があります。

 

 同性婚の法的効果

 法律での同性婚は未だに法制化されていません。しかし、2020年3月4日に東京高裁において、裁判所が「同性間でも婚姻に準ずる関係として法律上保護されるべきだ」と述べた上で、同性カップルの一方の不貞行為を認め損害賠償を命じた一審判決を支持しました。しかし、裁判で判断が分かれいるのが現状です。地方公共団体の条例レベルでは、市町村区では世田谷区をはじめ、都道府県では茨城県が同性パートナーシップ条例を制定するなど、条例を制定する団体が増えています。
 しかし、法律ではなく条例なので法律が定める婚姻の法的効果は限りなくゼロに近いです。また、自治体の条例なので発行条例から引っ越す場合などはパートー証書を返納する必要があるなど、お互いの身分関係が非常に不安定です(公正証書などの説明は省きます)。

 

 

2. 同性婚と宗教をロナルド・ドゥオーキンの理論から考える

 同性婚と宗教の関係を考えていた時に、ふと大学で教わったドゥーキンの書籍を思い出しました。それを自分で深掘りしてみたいなと思っていたところに、いいお題になりそうなtweetが目にとまりました。そのtweetを引用しながらドゥーキンの理論を参考にあれこれ考えます。

 

同性婚と宗教、関心を持ったきっかけ

 何気なく、Twitterをひらいて読んでいると目に止まったtweetが。松浦大悟さんという、民主党系から出馬、元参議院議員の方がしたtweetです。論点がごちゃごちゃしていますが、一連のtweetを全て引用します。

〜引用始まり〜

 〜引用終わり〜
 

 このtweetは、①〜⑤+補足1の6つのtweetで構成されています。このtweetを読んだ時に率直に言って「何が言いたいのか分からない」「論点がよく見えてこない」という感想を抱きました。だったら、このtweetを批判的に読んでみようと思い立って、ドゥオーキンの論を参考にしつつ思考しました。
 次に、ドゥオーキンの書籍を参考に思考していきますが、松浦さんのtweetを全て引用いながらは論点がズレてしまうので、同性婚と宗教、にクローズアップします。なので、tweet①②を引用、tweet③④⑤は同性婚と皇室、同性婚と兄弟婚などは今回は扱いません。

 

ドゥオーキンの理論から同性婚と宗教を考える

 先ほども述べたように、ここでは宗教上の理由により同性婚を認められない人と同性婚を認めるべきだという人の対立について、ドゥオーキンの書籍を2つ参考にしながら、同性婚と宗教について思考していきます。

 

 書籍:1  『神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか』
私は第1章において、私が宗教的信念の事項とみなす、一層抽象的な信念を述べた。それは<各人は自分の生涯を成功させるべき内在的で不可避の倫理的責任を負う>というものだ。その責任は、神を信ずる者も無神論者も共有できる宗教的態度の一部だ。それが含んでいるのは、いかなる種類の生が自分にとって適切か、あるいは品位をおとしめるかに関する倫理的問題を、各人が自分自身で決定する責任だ。たとえば、州が同性愛行為を禁止たりそれに負担を課したりするならば、州はその権利を侵害することになる。だから宗教的自由のこの正当化−自尊心は特別の保護を必要とするというもの−は、その自由を正統的な宗教の信者だけに限定する根拠を何ら提供しない。(pp.124-125.)

ロナルド・ドゥオーキン(2014)『神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか』筑摩書房

 このページを読んだ時は身震いしました(笑)。この本を購入したのは学生のとき。まさか5年後にこの本で読んだことが活かされるとは思ってもみなかったので。大学が就職予備校化したりと騒がれていますが、学んだことがすぐに役立つとは限らないですよね。

あっ脱線しました(汗)

 疑問点として、宗教上の理由で同性婚を認められない人の意見は、宗教関係なく同性婚を認める人と比較して特別に保護されるべきかという問題がありいます。

 さきほどの引用を読むと、ドゥオーキンは特別な保護は必要ないと言い切ります。それはなぜか。

 宗教を信じる人、信じない人は互いに共有できる宗教的信念を持っているからです。その宗教的信念とは「人は自らの生涯を成功させるために、自分自身の内に存在している倫理的な責任」という信念です。そして、その「責任」とは、「いかなる種類の生が自分にとって適切か、あるいは品位をおとしめるかに関する倫理的問題を、各人が自分自身で決定する責任」つまり「自尊心を保護する責任」と言い換えることができます。

 この「自尊心を保護する責任」は宗教者だけではなく、無神論者にも平等に与えられています。よって、同性婚の宗教的・文化的反対論が特別に保護されるわけではなく、同性婚容認論についても平等に保護されるわけです。よって、ある宗教だから全体として同性婚を認めないでほしいという主張は、他の人々の宗教的自由や自己決定権を侵害していることになります。

 

 書籍: 2『民主主義は可能か−新しい政治的討議のために』

尊厳に関する第2の原則は、倫理的価値を評価し選択する責任に関して、我々個人に対し、他者による強制的選択に委ねるのではなく、むしろ努力で決定することを課している−略−

第2の原則は、各人が次のような考え−他者は各人に対して、よき生を形成するものが何であるかに関する考えを支持する権利があるとか、各人が望み通り行うことを、他者がその倫理的価値が間違いであると考えた場合にそれを禁ずる権利がある、などという考え−を受け入れることを禁ずる。したがって、第2の原則によれば、各人は自らの文化に対してなされる、他者からの如何なる指示−それは、集合的かつ熟慮されたものであり、共同体の集合的権力や財産を全体的に有効に活用し、その成員の倫理的選択と価値に影響を与えることを目的とするものである−も、受け入れることが禁じられている。それは従属なのである。(pp.124-125.)

ロナルド・ドゥオーキン(2016)『民主主義は可能か-新しい政治的討議のために』信山社

 引用から単純化して同性婚で考えた場合、同性婚の宗教的・文化的反対論が他者の尊厳侵害に抵触するので認められず、同性婚容認論は、婚姻(異性婚)や他の性をめぐる生の尊厳侵害に及ばないので認められる、ということになります。

 

 

3. まとめ

 松浦さんはある宗教者の言葉として、「宗教は社会よりも大きいのだから宗教者にも配慮をするべきだ」とtweetしました。配慮の必要があるでしょうか?私はないと考えます。同性婚に反対している宗教者の要望を聞きそれを基に、反対或いは消極的賛成の立場を表明することが、同性婚をしたい人の宗教的自由や自己決定権、尊厳を侵害しているからです。
 
 アメリカの法哲学者ドゥオーキンの書籍を参考に同性婚の宗教的・文化的反対論を考えてきましたが、同性婚の宗教的・文化的反対論が同性婚をしたい人の宗教的自由、自己決定権、尊厳を侵害していることが明確になりました。

 次は、日本国憲法第24条と考えてみたいな。

 

では!

暴力的指導(体罰)は絶対にだめだ

こんにちは。

 

初投稿です。
プロフィールにもある通り、ADHDなんで誤字脱字ありまくり、三日坊主になるかもしれないですがよろしくお願いします(^ ^)

 

 


学部生の頃から関心を寄せている、体罰の問題について書いて見ました。自分用のサブ記録として書いているので、見づらい、誤字脱字等あります。誤字脱字等の指摘は不要です。

 

 
1.教育における体罰とはなにか

 教育における体罰とは、教師が児童生徒及び学生に対して教育的効果の向上を期待し若しくは校則等に違反した場合に、その身体に罰を加えることを言います。その罰の形式は有形無形を問いません。無形とは精神的な苦痛などです。

 このblogのタイトルは「暴力的指導(体罰)」となっています。私は、体罰は正当な罰ではなく、違法性を帯びた罰だという認識からそのように表記しています。しかし、blogの中で表記が混在すると紛らわしくなるので、以下「体罰」と表記するようにします。

 

・学校教育法第11条と文部科学省の通知

学校教育法第11条 

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

 条文を字義通り解釈すれば、校長及び教員は体罰を加えてはならないと読むことができます。しかし、必ずしも文部科学省の通知や裁判例では、児童生徒及び学生に対する有形力を伴った一切の指導が体罰になるわけではないとしています。次に、文部科学省初等中等教育局長から各教育委員会及び国立付属校宛てに出された通知(別紙)を引用します。

(4)児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく、裁判例においても「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない」としたもの(昭和56年4月1日東京高裁判決)、「生徒の心身の発達に応じて身長な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」としたもの(昭和60年2月22日浦和地裁判決)などがある。

引用:平成19・2・5−18文科初第1019号初等中等教育局長

 上記の引用にあるように、教師による有形力行使が全て否定されているわけではないことが分かると思います。この通知(別紙)では、どのような懲戒が体罰に該当するするのか、また有形力の行使が刑事上又は民事上の責めを免れうるのかを例を挙げて呈示しています。具体的に何が体罰に当たるのか又当たらないのかをみます。

 

体罰に当たる事例

 体罰は、「体罰」という言葉の通り、主に「身体」に「罰」を加えた場合に認定されることが多いです。以下に例を挙げます。

◯身体に対する侵害を内容とするもの
 ・体育の授業中、危険な行為をした児童の背中を足で踏みつける
 ・帰りの会で足をぶらぶらさせて座り、前の席の児童に足を当てた児童を、突き飛ばして転倒させる。
 ・授業態度について指導したが反抗的な言動をした複数の生徒らの頬を平手打ちする。
 ・立ち歩きの多い生徒を叱ったが聞かず、席につかないため、頬をつねって席にすかせる。
・生徒指導に応じず、下校しようとしている生徒の腕を引いたところ、腕を振り払ったため、当該生徒の頭を平手で叩(たた)く。
・給食の時間、ふざけていた生徒に対し、口頭で注意したが聞かなかったため、持っていたボールペンを投げつけ、生徒に当てる。
・部活動顧問の指示に従わず、ユニフォームの片づけが不十分であったため、当該生徒の頬を殴打する。

◯被罰者に肉体的苦痛を与える与えるようなもの
・放課後に児童を教室に残留させ、児童がトイレに行きたいと訴えたが、一切、室外に出ることを許さない。
・別室指導のため、給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない。
・宿題を忘れた児童に対して、教室の後方で正座で授業を受けるように言い、児童が苦痛を訴えたが、そのまま姿勢を保持させた。

引用:平成25・3・13−24文科初第1269号文部科学省初等中等教育局長
                    文部科学省スポーツ・青少年局

 

体罰に当たらない事例

有形力の行使以外の方法により行われた懲戒については、例えば、以下のような行為は、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常体罰には当たらない。

◯放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を過ぎても長く留め置く等肉体的痛を与えるものは体罰に当たる。
◯授業中、教室内に起立させる。
◯学習課題や清掃活動を課す。
◯学校当番を多く割り当てる。
◯立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。

引用:平成19・2・5−18文科初第1019号初等中等教育局長

 
 このように体罰に当たらない事例を見てみると、多くの教員が行っている懲戒の方法ではないかと思います。私も、宿題を忘れたりして雑巾掛けをたくさんしました(汗。体罰に当たらないのは、先ほど挙げた例以外に、有形力の行使を伴った懲戒が体罰には当たらないとされるものもあります。

 それは、児童生徒から教員に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のために有形力を行使した場合、また、その他周りの児童生徒に対して暴力行為が行われている場合は正当防衛、正当行為として刑事上又は民事上の責めを免れるとしています(正当防衛というのは刑法第36条1項を指していると思いますが、そこまで扱うととんでもない文量になるので割愛)。一方で、最高裁が児童に対する有形力の行使が体罰に当たらないと判示した事例もあり、有形力の行使が体罰であるとも断言できない状況がある。


 次は具体的に2つの事例から体罰について考えてみます。

 

 

2. 2つの裁判例からみる体罰

 具体的に2つの裁判例から体罰をみます。1つ目は、教員の指導を聞かず反抗され生徒を突き飛ばした結果、支柱に頭を打ち付け生徒が死亡した事例。2つ目は、教員が小学校2年生の児童の胸元を掴んだ指導が体罰には当たらないとされた事例。この2つの事例を参考に体罰を考えます。

 

体罰が直接的な原因となり生徒が死亡した事例

(事案の概要)

 教員が放課後に再試験を実施していた際、再試験を受ける必要がなかった生徒が教室内にいたため、生徒を廊下に出させようとしているうちに生徒のスカート丈が校則に違反していることに気づいた。教員が生徒にスカート丈を正しく直すように指導したが、生徒が指導に従わず口答えするなどしたため教員が激怒し、生徒の肩付近を2回連続して強く突き、さらに右側側頭部を突き上げるなどの暴行を加えたところ、生徒がそばのコンクリートの柱等に激突。その結果、生徒を死亡させた。

 

(教員の主張)

①教員の行為(体罰を含む)は教育の為に行われたもの。
②被害者は家庭の躾(しつけ)が十分ではなく、この点を無視して教員だけに責任を問うことはできない。
体罰を容認させる空気が学校にはある。その原因は、躾教育や管理主義・選別教育等の功罪が問われるべきである。
④定員を超える生徒数、不足する教員。詳細かつ窮屈な校則、躾教育の重視など教員に体罰を容認せざる得なかった学校管理体質・教育態様をとっていた高校にこそ大半の責任がある。

 

(裁判所の判断j)

①教育の名に値しない私憤に由来する暴行
②教員が主張する「②ないし④」について、学校教育法第11条但書(ただしがき)の趣旨は、問題生徒の数が増え問題性よりも深化して教員の指導がますます困難の度を加えつつある現状においても、学校教育の現場において何よりも尊重、遵守されなければならず、ましてや、教員が感情的になって暴行を振るうことは厳に戒められるべき。

高校生に対する生活指導を含め教育の現場においては当然のことながら対象者の人格の完成度が低い故に多大の忍耐力が要求されることは多言を要しないところであり、生徒に対する懲戒権について定めた学校教育法11条ただし書きで体罰を禁止しているのは、体罰がとかく感情的行為と区別し難い一面を有している上、それらを加えられる者の人格の尊重を著しく傷つけ、相互の信頼と尊敬を基調とする教育の基本理念と背馳しその自己否定につながるおそれがあるからであって、問題生徒の数が増え問題性よりも深刻化して教師の指導がますます困難の度を加えつつある現状を前提としても、その趣旨は学校教育の現場においてなによりも尊重・尊守されなければならないことはいうまでもない。ましては、生徒が反抗的態度を取ったからと言って、教師が感情的になって暴行を振るうことは厳に戒められるべきことである。
福岡高判平8・6・25判タ921号297

少し長いですが、判決文を引用しました。

 

(判決)

刑法205条 傷害致死罪 懲役2年 (求刑3年)
福岡高裁1996年6月25日

参考:判例タイムズ921号297号 

 

なぜ、数多くある体罰に関する判例の中でこれを選んだかを簡潔に書きます。2019年1月に東京都立町田総合高校で生徒が教員の指導に従わず、教員が体罰を行いました。学校教育法11条で体罰が禁じられているにも関わらず、教員が行った体罰を擁護する世論が少なからずありました。それに危機感を抱いたので、この判例を判決文と共に紹介しました。2019年の詳細についてはリンクからどうぞ。

 

www.asahi.com

 

 

・児童に対する有形力の行使が体罰とされなかった事例

(事案の概要)

 小学3年生担当の臨時教員Zが児童C(小3)をなだめていたところ、児童X(小2)が通りかかり、教員Zに覆いかぶさるような形で教員Zの肩を揉み始めた。児童Cの指導の邪魔になるため、児童Xに離れるように言ったが聞かなかったため、上半身を捻るように児童Xを振りほどいた。その直後、児童Eら(小6)数名に児童Xと児童Fがじゃれつくように足で蹴り始めた。児童Eらが教員Zに「いつもこうやって蹴ってくる」と言ったため、児童Fの肩を両手で押さえ、蹴る行為を制止し、主に児童Fに対して注意した。すぐに指導が終わり、教員Zが職員室に向かい歩いているときに、児童Xが教員Xの臀部付近を2回蹴り逃げ出した。教員Zは追いかけ校舎内の階段で捕まえた。教員Zは児童Xの胸元の洋服を両手で掴み壁に押し当て、つま先が浮き上がるまで持ち上げた。そして、児童Xに対し大声で「もう、すんなよ」と怒った後、手を離したところ、その反動で児童Xは階段の上に投げ出され転ぶ形になった。児童Xが帰宅後、夜に激しく泣くなどした。その後、心的外傷後ストレス障害PTSD)を発症、円形脱毛症、笑顔が消失するなどの症状が現れた。

 このような事実を基に、児童XがY市及び教員Zに対し、児童Xが教員Yの体罰により心的外傷後ストレス障害PTSD)に罹患したと主張して、国家賠償及び損害賠償各350万円余を求めた事案です。

 ☆ここではPTSD云々よりも、裁判所が体罰をどう捉えているのかについてクローズアップします。

 

(裁判所の判断)

◯第一審(地裁)
 ・教員Zは児童Fの行動に対して注意をする際には、児童Fの肩を両手で押さえて蹴る行為を制止して口頭で注意して行為が止まっている。一方、教員Zの臀部を児童Xが蹴った際には、首に近い胸元を掴み、壁に押し当てながら、児童Xがつま先立ちになる程度に上向きにつり上げている。その際に、大声で怒るとの行為に出ている。
 ・教員Zが児童Xとの面識がなく、どのような教育的配慮を要する児童かも知らない。
 ・教員Zの行為は、個人的な腹立たしい感情を児童Xにぶつけたものと認めざるお得ない。

◯第二審(高裁)
 ①胸元を掴むという行為は、喧嘩闘争の際にしばしばみられる不穏当な行為である。
 ②児童Xの年齢、教員Xと児童Zとの身長差及びそれまで面識がなかったこと等を総合すれば、児童Xが教員Zの行為によって被った恐怖心は相当なものであったと推認される。
 ③教員Zは、逃げる児童Xを捕まえるためにXの胸元を掴んだものであるが、児童Xの手を掴むなどのより穏当な方法も可能なはずである。
 ①〜③を総合すれば、教員Zの行為は、社会通念に照らし教育的指導の範囲を逸脱するものであり、「体罰」に該当する行為であると認められるのが相当である。

一審と二審をみると、同じような根拠づけで教員Zの行為が体罰に当たるとされていますが、三審でそれが180°ひっくり返ります。

◯第三審(最高裁
 短いのでそのまま最高裁判決の一部を引用します。

教員Zの本件行為は、児童の身体に対する有形力の行使ではあるが、他人を蹴るという児童Xの一連の悪ふざけについて、これからはそのような悪ふざけをしないようにXを指導するために行われたものであり、悪ふざけの罰として児童Xに肉体的苦痛を与えるために行われたものではないことが明らかである。教員Zは、自分自身も児童Xによる悪ふざけの対象となったことに立腹して本件行為を行なっており、本件行為にやや穏当を欠くところがなかったとはいえないとしても、本件行為は、その目的、態様、継続時間等から判断して、教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく、学校教育法11条ただし書にいく体罰に該当するものではないというべきである。したがって、教員Zのした本件行為に違法性は認められない。

参考:最高裁判所第三小法廷平成22年4月28日判決 (平20(受)981号、損害賠償請求事件)

先ほど挙げた事例と比較してどうでしょうか。 

 

3. やはり体罰はいけない

 簡単なまとめ、です。

判例から

 最初に挙げた判例の判決文に「体罰がとかく感情的行為と区別し難い」「体罰を加えられる者の人格の尊重を著しく傷つけ、相互の信頼と尊敬を基調とする教育の基本理念と背馳」とあります。まさにその通りでないでしょうか。
 2つ目は最高裁で大きく判断が変わりました。教員の行為が体罰ではない、と判断されましたが児童が被った不利益の責任は誰が負うのでしょうか。学部生のときにこの判例を初めて読みましたが、納得できるものではありませんでした。

 

・日本行動分析学会の声明

 2014年に日本行動分析学会が『「体罰」に反対する声明』http://www.j-aba.jp/data/seimei.pdfを出しました。体罰を行うと「強い苦痛刺激によって攻撃行動が自発する。攻撃行動の対象は「体罰」を与えた人とは限らない」「繰り返しの苦痛刺激を与えられることで耐性が上がり、同じ効果を得るためにより強い刺激を使わなければならなくなる」など行動分析学の知見から体罰に反対しています。体罰は短期的には効果があるかもしれない。しかし、それは一時的で長期的にみると教員や児童生徒にとって不利益しかありません。

 

4. My opinion 

 正当防衛等を除き、体罰には反対です。それは、子どもの法的権利保障、心理学などの学術的知見などからです。
 権利についてですが、例えば、教員が学校外で子ども殴ったら逮捕されます(それは教員以外もですが)。しかし、学校内ではよっぽどのことがない限り逮捕されません。教育という名の下で大人が暴力を振るうことが容認されているのなら、それは法治された社会とは言えません。自由権が侵害された前近代的な状況です。

 学部生のときに、スポーツ科学論という授業を履修しました。いわゆる体育科目です。科学的にスポーツをみるという...授業名そのままの内容でした。陸上選手にアフリカ系の選手が多い理由、長距離や中距離選手の筋繊維組成の違い、トランスジェンダーの選手登録などです。やはり、大学の授業なので中高の保健体育より学術的な内容でした。
 そのときに思ったのは、部活動をもっと科学的にできないかということです。根性論ではなくです。数年前に大阪の高校生が顧問から暴力等を受けそれが苦痛で自殺しました。指導方法や選手のマネジメント、知識が古すぎる。先ほど挙げだ、日本行動分析学会がネガティブな指導と指摘している内容を今だにしている教員は多いと多いです。教員免許が更新性になり10年が経ちました。この制度に批判の声もありますが、一応、今も続いているのでどうにか活用してできないかとも思います。

 

長文になってしまいましたが、ひとつの記録として。
子どもの権利について色々調べて見たいなぁ。