雨のち晴れ

自由帳

宗教上の理由から他者の同性婚をしたい自由を奪えるのか

こんにちは。

免許の更新に行こうと思ったら、
雨風が強く、警察署へ行くことを断念しました。
免許の有効期限はあと2日。
明日はなんとしてでも警察署へ行きます(笑


さて本題ですが、
宗教上の理由から同性婚に反対の立場の人は、
他者の同性婚をしたい自由を奪えるのか、
ということを思考していきます。
僕自身、ゲイなのでホットな話題ですが、
なるべく熱くならないように(熱くなりやすい性格なんです)。

導入として、異性婚、事実婚同性婚の法的効果の違いをサラッと書いた後に、僕が宗教と同性婚の関係に興味を持った理由をこれまたサラッと書いた後に、本題である宗教と同性婚について「法」の側面から思考します。

 

 

 

 

 

 

1. 異性婚と事実婚同性婚の違い

 本題に入る前に、異性婚、内縁、同性婚それぞれにどういった法的効果があるのかをみてみます。ここはサクッと簡潔に書くので、詳細を知りたい方が各自で調べてください。

 

 婚姻(異性婚)の法的効果

 日本における男女間の結婚のことを法律上「婚姻」といいます。このblogでは法律上の「異性婚」のことを「婚姻」と統一します。
 婚姻をした場合、男女には様々な法的効果が与えられます。これにより、婚姻と事実婚同性婚などのその他の結婚とは区別されます。婚姻のみに与えられている法的効果は、民法725条(親族関係)、民法753条(成年擬制)、民法772条(嫡出推定)、民法890条(配偶者の相続権)になります。
 しかし、民法が婚姻に与えている法的効果のうち多くは、法解釈や判例により事実婚にも与えられています。

 

 内縁の法的効果

 内縁は、「婚姻関係に準ずる関係」として扱われます。2人の関係が「婚姻に準じた関係」であると認められると、婚姻に関係する民法の規定が準用されることになります。しかし、婚姻の法的効果の部分にも書いたように、民法の婚姻に関する全ての規定が適用される訳ではありません。
 民法752条(同居義務)、民法770条(貞操義務)、特別法による公的年金等を配偶者として受け取る権利などが婚姻と準じた保障がなされています。しかし、民法890条(配偶者の相続権)、民法772条(嫡出の推定)などが婚姻とは違い保障されておらず、配偶者の相続権や父子関係の発生のためには認知が必要など不条理があります。

 

 同性婚の法的効果

 法律での同性婚は未だに法制化されていません。しかし、2020年3月4日に東京高裁において、裁判所が「同性間でも婚姻に準ずる関係として法律上保護されるべきだ」と述べた上で、同性カップルの一方の不貞行為を認め損害賠償を命じた一審判決を支持しました。しかし、裁判で判断が分かれいるのが現状です。地方公共団体の条例レベルでは、市町村区では世田谷区をはじめ、都道府県では茨城県が同性パートナーシップ条例を制定するなど、条例を制定する団体が増えています。
 しかし、法律ではなく条例なので法律が定める婚姻の法的効果は限りなくゼロに近いです。また、自治体の条例なので発行条例から引っ越す場合などはパートー証書を返納する必要があるなど、お互いの身分関係が非常に不安定です(公正証書などの説明は省きます)。

 

 

2. 同性婚と宗教をロナルド・ドゥオーキンの理論から考える

 同性婚と宗教の関係を考えていた時に、ふと大学で教わったドゥーキンの書籍を思い出しました。それを自分で深掘りしてみたいなと思っていたところに、いいお題になりそうなtweetが目にとまりました。そのtweetを引用しながらドゥーキンの理論を参考にあれこれ考えます。

 

同性婚と宗教、関心を持ったきっかけ

 何気なく、Twitterをひらいて読んでいると目に止まったtweetが。松浦大悟さんという、民主党系から出馬、元参議院議員の方がしたtweetです。論点がごちゃごちゃしていますが、一連のtweetを全て引用します。

〜引用始まり〜

 〜引用終わり〜
 

 このtweetは、①〜⑤+補足1の6つのtweetで構成されています。このtweetを読んだ時に率直に言って「何が言いたいのか分からない」「論点がよく見えてこない」という感想を抱きました。だったら、このtweetを批判的に読んでみようと思い立って、ドゥオーキンの論を参考にしつつ思考しました。
 次に、ドゥオーキンの書籍を参考に思考していきますが、松浦さんのtweetを全て引用いながらは論点がズレてしまうので、同性婚と宗教、にクローズアップします。なので、tweet①②を引用、tweet③④⑤は同性婚と皇室、同性婚と兄弟婚などは今回は扱いません。

 

ドゥオーキンの理論から同性婚と宗教を考える

 先ほども述べたように、ここでは宗教上の理由により同性婚を認められない人と同性婚を認めるべきだという人の対立について、ドゥオーキンの書籍を2つ参考にしながら、同性婚と宗教について思考していきます。

 

 書籍:1  『神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか』
私は第1章において、私が宗教的信念の事項とみなす、一層抽象的な信念を述べた。それは<各人は自分の生涯を成功させるべき内在的で不可避の倫理的責任を負う>というものだ。その責任は、神を信ずる者も無神論者も共有できる宗教的態度の一部だ。それが含んでいるのは、いかなる種類の生が自分にとって適切か、あるいは品位をおとしめるかに関する倫理的問題を、各人が自分自身で決定する責任だ。たとえば、州が同性愛行為を禁止たりそれに負担を課したりするならば、州はその権利を侵害することになる。だから宗教的自由のこの正当化−自尊心は特別の保護を必要とするというもの−は、その自由を正統的な宗教の信者だけに限定する根拠を何ら提供しない。(pp.124-125.)

ロナルド・ドゥオーキン(2014)『神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか』筑摩書房

 このページを読んだ時は身震いしました(笑)。この本を購入したのは学生のとき。まさか5年後にこの本で読んだことが活かされるとは思ってもみなかったので。大学が就職予備校化したりと騒がれていますが、学んだことがすぐに役立つとは限らないですよね。

あっ脱線しました(汗)

 疑問点として、宗教上の理由で同性婚を認められない人の意見は、宗教関係なく同性婚を認める人と比較して特別に保護されるべきかという問題がありいます。

 さきほどの引用を読むと、ドゥオーキンは特別な保護は必要ないと言い切ります。それはなぜか。

 宗教を信じる人、信じない人は互いに共有できる宗教的信念を持っているからです。その宗教的信念とは「人は自らの生涯を成功させるために、自分自身の内に存在している倫理的な責任」という信念です。そして、その「責任」とは、「いかなる種類の生が自分にとって適切か、あるいは品位をおとしめるかに関する倫理的問題を、各人が自分自身で決定する責任」つまり「自尊心を保護する責任」と言い換えることができます。

 この「自尊心を保護する責任」は宗教者だけではなく、無神論者にも平等に与えられています。よって、同性婚の宗教的・文化的反対論が特別に保護されるわけではなく、同性婚容認論についても平等に保護されるわけです。よって、ある宗教だから全体として同性婚を認めないでほしいという主張は、他の人々の宗教的自由や自己決定権を侵害していることになります。

 

 書籍: 2『民主主義は可能か−新しい政治的討議のために』

尊厳に関する第2の原則は、倫理的価値を評価し選択する責任に関して、我々個人に対し、他者による強制的選択に委ねるのではなく、むしろ努力で決定することを課している−略−

第2の原則は、各人が次のような考え−他者は各人に対して、よき生を形成するものが何であるかに関する考えを支持する権利があるとか、各人が望み通り行うことを、他者がその倫理的価値が間違いであると考えた場合にそれを禁ずる権利がある、などという考え−を受け入れることを禁ずる。したがって、第2の原則によれば、各人は自らの文化に対してなされる、他者からの如何なる指示−それは、集合的かつ熟慮されたものであり、共同体の集合的権力や財産を全体的に有効に活用し、その成員の倫理的選択と価値に影響を与えることを目的とするものである−も、受け入れることが禁じられている。それは従属なのである。(pp.124-125.)

ロナルド・ドゥオーキン(2016)『民主主義は可能か-新しい政治的討議のために』信山社

 引用から単純化して同性婚で考えた場合、同性婚の宗教的・文化的反対論が他者の尊厳侵害に抵触するので認められず、同性婚容認論は、婚姻(異性婚)や他の性をめぐる生の尊厳侵害に及ばないので認められる、ということになります。

 

 

3. まとめ

 松浦さんはある宗教者の言葉として、「宗教は社会よりも大きいのだから宗教者にも配慮をするべきだ」とtweetしました。配慮の必要があるでしょうか?私はないと考えます。同性婚に反対している宗教者の要望を聞きそれを基に、反対或いは消極的賛成の立場を表明することが、同性婚をしたい人の宗教的自由や自己決定権、尊厳を侵害しているからです。
 
 アメリカの法哲学者ドゥオーキンの書籍を参考に同性婚の宗教的・文化的反対論を考えてきましたが、同性婚の宗教的・文化的反対論が同性婚をしたい人の宗教的自由、自己決定権、尊厳を侵害していることが明確になりました。

 次は、日本国憲法第24条と考えてみたいな。

 

では!